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東京地方裁判所 平成元年(ワ)1664号 判決

原告

齋藤敏彦

被告

東京コンピュータサービス株式会社

右代表者代表取締役

高山允伯

右訴訟代理人弁護士

田辺克彦

右訴訟復代理人弁護士

中西和幸

伊藤ゆみ子

加野理代

右訴訟代理人弁護士

田辺邦子

田辺信彦

山口修司

主文

一  被告は、原告に対し、金八七万四七〇〇円及びこれに対する平成元年二月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、金一五七万四七〇〇円及びこれに対する平成元年二月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、被告会社の元従業員である原告が被告会社に対し、退職金規則に基づき退職金五七万四七〇〇円と、被告会社代表取締役高山允伯(以下、単に「被告会社代表者」という。)が原告の名誉を毀損する内容の文書を多数人に配布したため精神的損害を被ったとして不法行為による損害賠償請求権に基づき慰藉料一〇〇万円とこれらに対する訴状送達の翌日以降の遅延損害金の支払を求めた事案である。

一  争いのない事実

1  原告は、昭和五四年四月からコンピュータ関連の人材派遣業務を行っている被告会社に雇用され、昭和六二年一月から営業部次長として業務に従事していたものであるが、昭和六三年一月五日、被告会社との間で、同月二〇日をもって雇用契約を解約する旨を合意した。

原告の退職時の基本給は、一六万一一〇〇円であった。

2  原告は、被告会社退職後、コンピュータソフトウェアの開発業務を行うことを目的とする株式会社シー・アイー・シー(以下「CIC」という。)を設立し、その代表取締役に就任した。

3  被告会社は、就業規則に基づき、従業員の退職金に関する事項について退職金規則を作成し、従業員が自己都合により退職した場合には退職金として退職金算定基礎額に別表(略、以下同じ)1に定める支給率を乗じた額に更に別表2の係数を乗じた額を支給する旨を定めている(三条二項)。この退職金算定基礎額とは退職時の基本給であり(二条)、別表1、2の勤続年数は入社の日から退職の日までの期間(ただし、一か月未満の端数が生じたときは切り捨てる。)であり(四条一号・二号)、勤続年数の端数に対する支給率は一か月につき当該勤続年数に対する率と次の年数に対する率との差の一二分の一(ただし、小数点第四位以下は切り捨てる。)であり(五条)、退職金の端数額は円位未満の端数を切り捨て、一〇〇円未満を一〇〇円に切り上げるものとされている(六条)。

右規定を適用すると、原告の退職金算定基礎額は一六万一一〇〇円、原告の勤続年数は八年九か月となり、原告に退職金を支給すべき場合、その額は、五七万四七〇〇円となる。

(計算式)

161,000×{5.0+(5.8-5.0)×9/12}×{0.6+(0.65-0.6)×9/12)}=161,000×5.6×0.637=574,675

4  右退職金規則では、従業員が懲戒解雇(所轄官庁の認定を受けた場合はもちろん、認定を受けない解雇も含む。)された場合、退職金の支給をしない旨を定めている(九条一項)。

また、被告会社は、従業員の賞罰に関する事項について賞罰規則を作成し、八条において懲罰の種類として、譴責、減給、出勤停止、役職の剥奪・降格又は停止、諭旨退職及び懲戒解雇を定め、九条において懲罰の事由として、就業規則四三条(服務の基本原則)、四四条(入退場に関する遵守事項)、四五条(執務に関する遵守事項)、四六条(秩序、風紀保持のための遵守事項)の服務規律に違反した場合(一号)、金品を無断で持ち出す等、会社又は派遣先企業の所有財産に損害を与えた場合(五号)、前各号に準ずる行為をした場合(一〇号)等を定めている。

一方、被告会社の就業規則四六条では、従業員は、秩序、風紀を保つため、次の各号を遵守しなければならないものとして、社内外を問わず従業員として品位を保ち、会社の名誉と信用を傷つけ、会社の機密を洩らすなど、また、会社の不利益になるような言動をしないこと(三号)、他の従業員の業務を妨げたり、退職を強要しないこと(八号)、会社の許可なく、他の会社の役員、従業員を兼務し、あるいはアルバイトなどの営利行為を行わないこと(一一号)等を定めている。

5  被告会社又は被告会社の関連会社である日本電子産業株式会社(以下「NEI」という。)やハイテクシステム株式会社(以下「HTS」という。)の従業員中、別表3記載の者がこれを退職し、CIC又は株式会社フジソフトインテリジェンス(以下「FSI」という。)に就職した。

6  被告会社代表者は、昭和六三年四月ころ、被告会社の従業員及び元従業員らに対し、別紙(略、以下同じ)記載のとおりの文書(以下「本件文書」という。)を配布した。

二  争点

1  原告の退職金請求が権利の濫用に当たるか。

(被告会社の主張)

原告は、在職中、次のとおり懲戒解雇事由に該当する重大な背信行為をなした。被告会社がこれを原告の退職時に知っていれば、当然に懲戒解雇処分とし、原告に退職金は支給されなかったはずである。したがって、原告が右懲戒解雇処分を受けなかったことを奇貨として退職金の支払を求めることは、権利の濫用に該当するというべきである。

(一) 原告は、被告会社在職中、被告会社と同様にコンピュータソフトウエア開発業を営むFSIの顧問に就任した。

(二) 原告は、被告会社営業部次長在職中の昭和六二年一二月ころから、被告会社の顧客に対し、被告会社との取引を止めて、自己が設立するCIC(被告会社はCICと同じ業務を目的としている。)及び自己が顧問をしているFSIに取引を移行させるよう強力に働きかけて顧客を奪取し、また、計画的に被告会社やその関連会社であるNEI、HTS及び日栄システムウェア株式会社(以下「NSC」という。)の従業員技術者に対し、CIC及びFSIに移籍するよう執拗に働きかけて、別表3記載の多数の従業員技術者を引き抜き、被告会社に多大の損害を与えた。

(三) 原告は、被告会社在職中の昭和六二年五月六日、被告会社の関連会社であるエヌ・ティ・ティ・システム開発株式会社(以下「NTTS」という。)から被告会社に派遣され、被告会社から沖電気株式会社に派遣されていた藤田嘉徳が同年四月二三日から同年五月一一日まで京都銀行事務センターに出張した際の出張旅費の仮払金六万円を、同じく在職中の同年六月三日、藤田嘉徳が同年五月二二日から同年六月一〇日まで同センターに出張した際の出張旅費の仮払金六万円を同人のためにそれぞれ代理受領したが(代理受領の時期及び金額の点は除き原告が藤田嘉徳に交付すべき出張旅費の仮払金を被告会社から代理受領したことは争いがない。)、これを藤田嘉徳に交付せず着服して退職した。

(四) 右(一)、(二)の事由は賞罰規則九条一号、就業規則四六条三号、八号、一一号に、右(三)の事由は賞罰規則九条五号又は一〇号にそれぞれ違反し、その背信性からしていずれも懲戒解雇事由に該当することは明白である。

(原告の主張)

原告は、右引き抜き行為等を全く行っておらず、被告会社及びその関連会社の従業員がCIC及びFSIに移籍した根本的な理由は、各従業員が被告会社らの経営方法に嫌気がさしたからである。原告は、社会的相当性を欠くような違法な手段を使って各従業員を移籍するよう仕向けたことはなく、各従業員は、自己の判断で転職先としてCIC及びFSIを選択したにすぎない。

また、原告が代理受領した藤田嘉徳の出張旅費の仮払金については直接又は間接的に同人に対して交付済みである。

2  被告会社代表者の本件文書の配布行為につき不法行為が成立するかどうか。成立するとすれば、慰藉料の額はどうか。

(原告の主張)

被告会社代表者は、故意又は少なくとも過失により、原告の社会的信用及び経済的信用を失墜低下させる目的で本件文書を不特定多数の者に配布し、原告の名誉を著しく毀損した。すなわち、原告は、前記のとおり藤田嘉徳の出張旅費の仮払金について精算を済ませていたにもかかわらず、第一に、標題に別紙のとおり下線を付して特筆し、あたかも原告が在職中に金銭面において不正・違法な行為を犯したかのような第一印象を与え、第二に、本文中に別紙のとおり点線で下線を付した上、「在職中の業務に関する金銭上のトラブルが発生しております。」として、その金銭上のトラブルがいかなる種類のトラブルであるかを明らかにせず、原告がまさしく金銭に絡み、不正・違法なことをなしているかのような誤った印象を故意に与え、第三に、本文中に「このことにつき損害を受けた方、仮払い等の精算が未処理のため、不利益を被った方に対しては、会社にも責任がありますので、会社として斉(ママ)藤敏彦に請求するか、場合によっては補填いたします。」として、被告会社が原告に対して責任を追求する意向を持っていることを明示し、原告が金銭上何らかの責任を追及されてしかるべき事実が存在しているかのような印象を与えた。

原告は、被告会社代表者の右行為により、社会生活上及び経済生活上、著しい精神的打撃を受けたのであり、この精神的損害に対する慰藉料としては一〇〇万円が相当である。

被告会社代表者は、被告会社の職務を行うについて右行為をなしたのであるから、被告会社は、不法行為(商法二六一条三項、七八条二項、民法四四条一項)による損害賠償責任を免れない。

(被告会社の主張)

原告が前記1(三)のとおり藤田嘉徳に支払うべき金員を支払っていないことが同人の申立てにより明らかになったため、被告会社代表者は、原告から同様の損害を受けている従業員がいないかどうか確かめるため、本件文書を被告会社の従業員及び元従業員らに配布したものであり、この行為は、何ら違法性がなく、不法行為に該当しない。

第三争点に対する判断

一  争点1(退職金請求権の有無)について

1  争いのない事実、証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨によると、原告の新会社設立の契機について次の事実が認められる。

(一) 被告会社は、主としてコンピュータソフトウエアの開発業務を行う会社で、設立当初から被告会社代表者(高山允伯)が代表取締役に就任しており、昭和六三年当時、資本金七六〇〇万円、従業員七百数十名、年間売上高約五〇億円であり、関連会社としてNSC、NEI(昭和六三年三月にNSCに合併)、NTTS、HTS等七社を有し、関連会社を含めた従業員総数は一六〇〇名余りであった。

原告は、昭和五四年四月、被告会社に従業員技術者として採用され、当初はシステム技術者として派遣先で勤務していたが、勤務するうち被告会社代表者から行動力、営業手腕を見込まれて昭和五七年三月から営業部門に移り、主として制御関係及び通信関係の受注業務を担当して多くの営業実績を上げた。そのため、昭和六〇年一月二六日には関連会社であるNEIの取締役に抜擢され、更に昭和六二年一月一日には被告会社営業部次長を命ぜられて、被告会社グループ内では事実上被告会社代表者に次ぐ地位に就くことになった。原告は営業部次長であるため、形式的には上司に当たる者がいたが、実際には、被告会社代表者から直接指示を受け、その具体的な処理、決定は原告に一任されていた。

(二) ところで、コンピュータソフトウエアの開発業者の従業員の業務形態としては派遣体制と受託体制があり、被告会社は派遣体制をとっている。派遣体制とは、従業員技術者が顧客のもとに赴いて顧客の指揮命令下で仕事をし、代金を従業員技術者の仕事に要した時間単位で計算する形態をいい、受託体制とは、仕事そのものを引き受け、自社内において自社の責任で完成させるので、従業員技術者は通常顧客先に赴かず、自社内で仕事をし、その代金は仕事を受託する際に予め仕事単位で決まっている形態をいう。受託体制の場合には、指揮監督権は自社の上司にあり、従業員は自己のペースによりある程度自由な発想で技術を開発することができ、自己の技術力を総合的に向上させることができる。このような点や、派遣先に居ると一種の疎外感を感じることもあって、一般的に従業員技術者としては、派遣体制よりも受託体制のもとで仕事をしたいという希望が強く、被告会社及びその関連会社の従業員もその例外ではなかった。

(三) 原告は、被告会社が右のような派遣体制をとっていることのほか、給与体系、勤務時間、福利厚生、教育研修など従業員の労働条件の点でも被告会社の経営方針に疑問を抱いていたところ、昭和六二年一〇月一五日から同月二四日までの間、NEIが加入している社団法人日本システムハウス協会が企画した海外調査研究視察団の一員として参加し、その機会に、コンピュータソフトウエア開発業を営むFSIの当時の代表取締役であった中上崇と知り合った。中上崇は、ベンチャービジネスに深い関心と知識を有していたので、原告は、同年一一月上旬から数回にわたって中上崇に会い、同人からベンチャービジネスの魅力や重要性について話を聞く機会を得た。

また、原告が右視察旅行から帰ってみると、被告会社及びNSCの従業員が集団で退職願いを提出し、株式会社マックスと称する会社を設立するという事態が発生していたが、原告が右退職騒ぎに加担したことにされていたという事情もあって、原告は、被告会社に幻滅するようになった。また、そのころ、被告会社グループがグループ内の会社を合併するという話が持ち上がり、従業員の間で噂になっていた。原告は、被告会社、NEIに在職中、退職しようとする者に対し、被告会社グループは会社が分かれているのでその分だけポストもあると言って慰留の説得に当たっていたが、合併が実現すれば右説得の根拠を失うことになるため、自分としても責任を感じるようになっていた。

このような経緯から、原告は、昭和六二年一一月には、被告会社を退職して自らコンピュータ関係の会社を設立したいと考えるようになり、中上崇に対し、その意向を伝えたところ、資金援助をするとの返事を得たので、同月末ころには、新会社設立の意思を固めた。

2  被告会社主張の懲戒解雇相当事由の有無について

(一) 労働者は、雇用契約存続中においては、同契約に付随する信義則上の義務として、就業規則を遵守するなど、使用者の正当な利益を侵害しない義務を負うと解されるところ、被告会社は、原告が被告会社在職中に被告会社と同業を営むFSIの顧問に就任したと主張している。

FSIの業種や原告とFSIの代表取締役中上崇との関係については、前記認定のとおりであるが、(証拠略)は、いずれも原告が被告会社在職中にFSIの顧問に就任したことを認めるに足りないし、ほかにこの事実を認めるに足りる証拠はない。

(二) 被告会社は、原告が被告会社在職中に被告会社の顧客に対し、被告会社との取引を止めて、CIC及びFSIに取引を移行させるよう強力に働きかけて顧客を奪取したと主張しているが、本件全証拠を検討しても、このことが認められる的確な証拠はない。

(三) 被告会社は、原告が被告会社在職中に計画的に被告会社やその関連会社であるNEI、HTS及びNSCの従業員技術者に対し、CIC及びFSIに移籍するよう執拗に働きかけて、別表3記載の多数の従業員技術者を引き抜いたと主張している。

なるほど、証拠(〈証拠略〉)によると、原告が、昭和六二年一一月末ころから、被告会社を退職した昭和六三年一月二〇日までの間に、被告会社従業員や関連会社であるNEI等の従業員らに対し、退社の意思を伝えたり、自ら新会社を設立するつもりであることや、従業員を大切にするなどの新会社の経営方針を話したりしたこと、同年一二月二九日に開催された被告会社京都営業所の納会においても、同営業所の従業員に対して同様の話をしたことが認められる。このような事実からすると、原告が右在職中に被告会社従業員及び関連会社従業員に対して設立予定の新会社(CIC)へ移籍するよう何らかの勧誘をしたことが推測されないではない。しかし、懲戒解雇に値する「会社の不利益になるような言動(就業規則四六条三号)」とは、その性質上、相当重大なものであることを要すると解されるところ、原告が被告会社在職中に単なる勧誘の域を超えて被告会社及び関連会社から多数の従業員技術者を意図的、計画的に引き抜くなどの行為をしたことや、就業規則四六条三号の他の遵守事項又は同条八号、一一号の遵守事項に違反する行為をしたことを認めるに足りる証拠は存しない(なお、被告会社は、原告の被告会社退職後の引き抜き等の行為を理由に、原告を懲戒解雇することはできないのであるから、原告の被告会社退職後の引き抜き等の行為を理由として、退職金請求が権利の濫用に該当するということができないことは当然である。)。

(証拠略)には、原告が昭和六三年一月中旬か下旬ころ日本信号株式会社与野工場に派遣されているNEIの従業員技術者七名全員を集めて、原告の設立する新会社(CIC)に移籍するよう勧誘した旨の記載があるが、その時期が原告の退職前であるかどうか明らかではないし、右記載内容自体も(証拠略)に照らしてにわかに措信することができない。また、(証拠略)には、被告会社従業員で立石ソフトウエア株式会社に派遣されていた従業員技術者のプロジェクトリーダーであった橋本英治が、昭和六二年一二月半ばころ、被告会社従業員の有馬啓之、枡谷秀樹及び土居忠司を長岡天神にある居酒屋に連れて行き、原告が設立する新会社に移籍するよう勧誘した旨の記載があるが、原告が橋本英治と被告会社従業員の引き抜き、勧誘を共謀し、又は、橋本英治に対して右勧誘を指示したことなどを認めるに足りる証拠はない。さらに、(証拠略)には、NEIの従業員中里將始又は同笠木大幹が同社の従業員に対し、原告が設立する新会社に移籍するよう勧誘した旨の記載があるが、右勧誘に関して原告の共謀、指示などの事実を認めるに足りる証拠がないことは右同様である。そして、ほかに原告が被告会社在職中に単なる勧誘にとどまらず、社会的に相当な範囲、程度を逸脱して被告会社又はその関連会社の従業員に対し、CIC又はFSIに移籍するよう直接又は間接的に働きかけたり、指示、説得したりしたことを認めるに足りる証拠はない。

しかも、本件証拠上、被告会社従業員らがCICやFSIに移籍したことが原告の行為に起因すると認めることはできず、かえって、証拠(〈証拠略〉)及び弁論の全趣旨によると、CIC及びFSIに移籍した従業員技術者らは、かねてより被告会社及び関連会社が派遣体制をとっていることや賃金その他の待遇に不満を持っており、転職の機会をうかがっていたところ、折から原告の新会社設立の動きが社内に知れ渡るようになり、これが契機となって、自らの意思と判断に基づいて被告会社又はその関連会社を別表3の各「退社年月日」欄記載のころに退職したことが認められるのであり、この点に照らしても、被告会社の主張は理由がないといわなければならない。

もっとも、以上のこととは別に、原告は、後記二1のとおり、在職中に二回にわたり職務上代理受領した藤田嘉徳の出張旅費の仮払金合計一二万円を同人に支払わないまま退職したのであり、このことは賞罰規則九条一〇号(五号に準ずる行為)に該当すると解することができる。しかし、本件証拠上、原告が右金員を着服したとまで認めることは困難であるし(なお、原告は、右金員を被告会社の会議費・接待費に振り替えた旨供述している。)、右不払い自体が懲戒解雇を相当とするほどの背信性の強い行為であるということもできない。

したがって、当時原告が被告会社において事実上被告会社代表者に次ぐ地位にあったことを考慮しても、在職中の前記諸行為が原告の被告会社における九年間にわたる勤務の功労(被告会社が原告の営業実績を認めて原告を在職中重用したことは前記のとおりである。)を失わせるほどの重大な背信行為であるとはいえない。

以上によると、原告が被告会社に対して退職金を請求することが権利の濫用に当たるとすることは無理というほかはない。

二  争点2(慰藉料請求権の有無)について

1  争いのない事実、証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる。

(一) 藤田嘉徳は、昭和六二年当時、被告会社の関連会社であるNTTSから被告会社に派遣され、さらに被告会社から沖電気株式会社に派遣されており、その出張旅費は、被告会社が負担することとされていた。当時、被告会社及び関連会社各社の関係は緊密で、被告会社がその中心的存在であった。

(二) 藤田嘉徳は、昭和六二年四月二三日から同年五月一一日まで、京都銀行事務センターに出張を命ぜられた。その出張旅費の総額は、一六万〇九八〇円であった。原告は、藤田嘉徳に対する仮払金として同人のために、被告会社から、昭和六二年四月二一日に九万円を、同年五月六日に六万円をそれぞれ受け取ったにもかかわらず、内金九万円しか同人に交付しなかった。そのため、藤田嘉徳は、同月一三日、出張旅費精算について九万円しか受領していないものとして、旅費合計一六万〇九八〇円から旅費仮払金九万円を差し引いた七万円〇九八〇円を被告会社に請求し、同月二五日、七万〇九八〇円の支払を受けた。しかし、右計算によると、同月六日に原告に交付された仮払金六万円の精算が終わっていないことになるので、被告会社経理部の担当者が、同年六月三〇日、藤田嘉徳に対し、六万円を返還するよう電話で連絡した。これに対し、藤田嘉徳は、右担当者に対し、仮払金六万円の支払を受けていない旨を説明したところ、原告が、途中で右担当者の電話を替わり、藤田嘉徳に対し、「精算方法が面倒になるので、後で支払うから払っておいてくれ。」と指示した。藤田嘉徳は、その事情は分からなかったが、原告が支払を約束したので、その指示に従い、同日、被告会社に六万円を支払った。しかし、原告は、その後、藤田嘉徳に対し、右六万円を支払わなかった。

(三) 藤田嘉徳は、昭和六二年五月二二日から同年六月一〇日まで、京都銀行事務センターに出張を命ぜられた。この出張旅費の総額は、一六万六五四〇円であり、同年五月二一日、この旅費のうち仮払金として六万二四〇〇円が被告会社から藤田嘉徳の銀行口座に直接振り込まれた。さらに、被告会社は、同年六月三日、仮払金六万円を支払い、原告が藤田嘉徳のためにこれを受領したが、同人には交付しなかった。右受領を知らない藤田嘉徳は、同月一五日、被告会社に対し、出張旅費から既に受領済みの仮払金を差し引いた一〇万四四四〇円(計算上は一〇万四一四〇円であるが、藤田嘉徳の計算違いのため右金額となった。)の支払を請求したが、被告会社は、一二万二四〇〇円を既に藤田嘉徳に支払済みのものとして残額四万二九七〇円(計算上は四万四一四〇円であるが、被告会社の計算違いのため右金額となった。)を藤田嘉徳に支払った。

(四) 藤田嘉徳は、出張旅費の不足分の合計額一二万円の件について折りをみて原告に聞いてみようと思っていたところ、原告が、同年八月三一日、被告会社システム部のある東京都千代田区(以下、略)石坂ビルに仕事の打合せで来所したので、原告に対し、右一二万円がどうなっているか尋ねた。これに対し、原告は、「会社の方でまだ決裁されていないから、自分が立て替えて払おうか。」と言った。しかし、藤田嘉徳は、原告を信頼していたことや、出張旅費は被告会社が支払うべきものであると考えていたことから、右申出を断った。そして、藤田嘉徳は、原告の連絡により、いつか被告会社が支払うであろうと思ったので、以後は右金員のことを原告その他の者に話すことはなかった。

(五) ところが、藤田嘉徳は、昭和六三年二月上旬、原告が被告会社を退職したことを知り、右一二万円を被告会社から実際に支払ってもらえるかどうか不安になり、同月下旬、NTTSの上司である営業部長宮田文雄に対し、京都出張の際の出張旅費が不足している事情を説明した。宮田文雄は、これを聞いて驚き、直ちに被告会社経理部長長澤邦夫にその調査を依頼するとともに、同年三月一〇日過ぎに被告会社の元従業員小暮年之に電話をかけ、面会を求めた。小暮年之は、原告の被告会社在籍当時の原告の直属の部下であり、宮田文雄とも面識があり、同月初めころからは原告が被告会社退職後設立したCICに勤務していた。宮田文雄は、小暮年之から面会の了解を得たので、同月一六日、喫茶店で、同人と会い、藤田嘉徳の出張旅費未払の件について原告に対して事実を確認するよう依頼したところ、小暮年之は、同月二二日、宮田文雄に対し、「齋藤社長は、確かに藤田君の出張旅費の仮払金分の六万円を二回、合計一二万円を会社から受け取ったが、藤田君本人に渡していないと言われた。齋藤社長は、藤田本人に返すつもりだ。」と電話で回答した。一方、長澤邦夫も、藤田嘉徳に面接して調査した結果、一二万円の支払を受けていないとの確答を得た。そこで、宮田文雄は、被告会社代表者に対し、右一連の経過を報告した。このようにして、原告が藤田嘉徳に支払うべき出張旅費一二万円を支払わないまま退職したことが被告会社に判明した。そこで、被告会社は、右不払いの件について協議した結果、昭和六三年四月六日、藤田嘉徳に対し、一二万円を支払った。

一方、原告は、小暮年之から藤田嘉徳の出張旅費の件について質問を受けたことから、昭和六三年三月中ごろないし四月初めころ、被告会社の元従業員猪野一重に対し、自己の出捐による一二万円を預けてこれを藤田嘉徳に交付するよう依頼した。そこで、猪野一重は、藤田嘉徳に対し、右一二万円を交付する旨伝えたが、藤田嘉徳は、被告会社から支払を受けるとして、右申出を断った。

(六) 当時、被告会社代表者は、被告会社及び関連会社の従業員の退職者が続出し、別表3記載の者がFSIやCICに入社したことを憂慮しており、これが原告の引き抜きによるものであると判断していたので、原告の右仮払金の不払いの件を契機に、従業員の退職を抑制する一つの方法として、原告による金銭上の被害の有無を従業員に対して書面で回答させることを決めた。被告会社代表者は、被告会社総務部にその文案を作成させて本件文書を完成し、同年四月、被告会社の従業員全員(七百数十名)に対して、同月二五日に支払われる給料明細書の中にこれを同封して配布し、その元従業員に対して、これを郵送して配付した。そして、本件文書にはコンピュータソフトウエアの製造販売会社の元役員が同社の従業員に対して自己が設立しようとする同種の会社への参加を勧誘することが忠実義務違反に当たることを認めた裁判事例(東京地方裁判所昭和六三年三月三〇日判決)の新聞記事の写しを同封した。また、被告会社の関連会社の従業員全員及び元従業員に対しても、被告会社代表者から関連会社への指示により同様の措置がとられた。しかし、被告会社及び関連会社の従業員及び元従業員の中で、本件文書を見て被告会社又は関連会社に対し、原告による被害等の申出をした者はなかった。

2  ところで、本件文書には、別紙のとおり、原告に「在職中の業務に関わる金銭上のトラブルが発生しております。」と記載されているが、前記認定事実によると、原告に関し、藤田嘉徳の出張旅費仮払金の件でトラブルが発生していたことは事実であって、この点に関しては、右記載が虚偽であるとはいえない。しかしながら、右文章は、点線で下線が付されて強調されているだけでなく、別紙のとおりの後続の文章や「斉(ママ)藤敏彦在職中の金銭問題について」という表題とあいまって、これを読む者に対して、原告が被告会社在職中、業務に関して被告会社から責任を追及されるような金銭上の不正行為をなしたとの印象を与えるものであって、全体として原告の名誉を毀損するものであることは否定できない。しかも、本件文書の配布の時期が被告会社及び関連会社からの退職者の続出と原告設立にかかるCIC等への右退職者の移籍が問題となっていたときであること、配布先が被告会社及び関連会社の従業員全員及び元従業員であること、本件文書に前記のような裁判事例の新聞記事の写しを同封したことなどに照らすと、本件文書の配布の主たる目的は、原告が金銭にからむ不正行為をなした者であるとの印象を与えることにより、被告会社及びその関連会社の従業員が、原告の考えに共鳴し、又は、原告の働きかけに応じて退職するのを牽制するとともに、CIC等に移籍した元従業員に対しても同様の印象を与えることにより、CIC等の弱体化を図ることにあったとみられるのであって、被告会社主張のように損害を受けた他の従業員がいないかどうかを確かめることが本来の目的であったとみることは困難である。また、配布の範囲の点からみても、被告会社主張の目的であれば、従業員全員に配布するまでの必要はないと考えられるにもかかわらず、本件文書は、当該従業員と原告との関係を問わず、原告が退職した当時の被告会社及び関連会社の従業員全員及び元従業員に一律に配布されているのであって、原告の当時の被告会社等における地位を考慮しても(事実上被告会社代表者に次ぐ地位にあったからといって、全従業員と職務上接触があるわけではないし、そのような証拠も存しない。)、その必要な範囲を著しく超えているといわざるを得ない。なお、この点に関連して、被告会社代表者は、本人尋問において、原告はギャンブル、飲酒などで金遣いが極めて荒かった旨指摘しているが、そのようなことを認めるに足りる証拠はない。

したがって、本件文書の配布は、その目的及び範囲の点で社会的な相当性を逸脱しており、正当な業務とはみることはできず、違法といわざるを得ないのであり、これによって原告が精神的苦痛を受けたことは容易に推認されるところである。

そして、前記認定事実によると、被告会社代表者は、被告会社の代表取締役の職務として本件文書を配布したものであるから、被告会社は、商法二六一条三項、七八条二項、民法四四条一項により、原告が被った精神的損害について不法行為責任を免れないといわなければならない。

3  前記のような本件文書の内容、配布の目的・範囲、原告が藤田嘉徳に交付すべき一二万円を交付しないまま退職したこと自体は事実であること、その他本件に顕れた諸般の事情を考慮すると、本件文書の配布により原告が受けた精神的苦痛に対する慰藉料としては、三〇万円が相当である。

三  まとめ

以上の次第で、原告の本件請求は、被告会社に対し、退職金五七万四七〇〇円及び慰藉料三〇万円の合計八七万四七〇〇円並びにこれに対する訴状送達日の翌日であることが記録上明らかであり、かつ、不法行為の後である平成元年二月一九日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるが、その余は理由がない。

(裁判官 小佐田潔)

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